翻訳はそもそも不可能か

       

言葉の特殊性

 
 ひとつひとつの言葉には歴史があります。たとえば、英語ではswineもpigも豚を意味しますが、この二つの単語は成り立ちが異なるため、ニュアンスも用法も異なります。

さらに、ひとりひとりの書き手が人生の様々な場面でこうして歴史を持つひとつひとつの言葉と出会う中で培われた個人的な歴史によって、ある言葉がどう使われるかが決まるのです。

ある特定の人生経験を持つある特定の人物が、ある特定の状況で、ある特定の文脈で、ある特定の言葉を使って意味を伝えようとする。

使われる言葉というのはそのように特殊なものなので、本来、ほかの言葉では代用できません。こうして、あるひとつの言語の中でも非常に高い特殊性を持つそれぞれの言葉を、まったく異なる歴史と文化を背景に持つ別の言語の言葉で置き換えるというのは、不可能なことに思えてきます。訳文は元の文章とはまったくの別物なのではないでしょうか。

 

訳文と原文は別物

 
 厳密な意味では、訳文は原文とはまったくの別物です。

詩は訳せません。訳した時点で別の作品になってしまうからです。

たとえば、有名な「私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」という詩は、ジャン・コクトーの詩から堀口大學が生み出した新たな作品だと言えます。

 

翻訳は不可能?

 
 それでは翻訳というのは不可能なことなのでしょうか。

もちろん、不可能ではありません。それは、詩などの文芸作品と異なり、一般的な文章においては言葉の緊密性がそこまで高くないからです。

平たく言えば、ものの言い方は何通りもある、ということです。

 

手段としての言葉

 
 さきほどの一語一語の特殊性について述べましたが、表現自体が目的である文芸作品とは違って、意味の伝達が目的である一般的な文章では、言葉は手段にすぎません。

人にものを伝えようとするときに、相手に意味が伝わらなかったら別の言い方を選びます。絶対にこの言葉じゃないといけないんだ、という強い思い入れがある人はそういないはずです。「運動会は雨天順延だって」と言っても伝わらなければ、「雨が降ったらその次の日にやるんだって」と言い換えるわけです。そもそも伝えることが目的であって言葉はその道具にすぎない場合、別の言葉に言い換えるしかありません。

 

言葉ではなく、意味を訳す

 
 これを、言語をまたいで行うのが翻訳です。言葉は訳せないけれども意味は訳せるのです。

原文のひとつひとつの特別な言葉に込められた意味を感じ取り、ターゲット言語の世界でまたひとつひとつの言葉の特殊性を味わいながら再構築する。

それが私にとっての翻訳です。