言葉にこだわってこそ翻訳者?

       

だけど言葉にこだわっちゃう。プロだもん。

  翻訳をなりわいにしている人は、言葉に対するこだわりが強い人ばかりだと思います。ニュースを見ていても「てにをは」が気になる。映画を観ていても台詞のちょっとした言い回しについて映画そっちのけで考えてしまう。そんな人ばかりなのではないでしょうか。

 

  翻訳学校でも、ひとつの単語、ひとつの言葉にとても強いこだわりを見せる人が結構います。訳文について聞くと、「原文のこの単語が持つこういうニュアンスを出すために、訳文はこの言葉を選びました」という反応がたいてい返ってくるものです。これといった考えもなく、何となく訳した、という人はまずいません。

 

  そして、特定の言葉にとても強い思い入れがある人もいます。普通は○○という言葉が使われるところだけれども、この言葉には個人的に強い抵抗があるのでXXという言葉を使う。そういうこだわりがあってこそ言葉のプロなのかもしれません。

 

でも書き手はそこにこだわってる?

  しかし、そういったこだわりが空回りしてしまうこともあります。原文ではとくに強調されているわけでもなく、さらっと書かれている部分が、訳者のこだわりのせいで訳文では妙に目立ってしまったら? 原文ではさらっと読めるところが訳文では引っかかってしまったら? 原文にはない「でっぱり」ができてしまいます。

 

  マーケティング翻訳の場合、原文にはないアクセントを意図的につけることもあります。でも一般的に言って、原文にはない重み、違和感、アクセントを勝手につけてしまうのは良い訳とは言えません。自分だけのこだわりじゃないかどうか、いったん頭を冷やして原文と向かい合う必要があります。

 

「自分のこだわり」は重要じゃない

  極端な言い方をすると、物書きではなくあくまで翻訳者ならば、言葉に対する個人的なこだわり、「自分のこだわり」はない方がいいのです。それよりも、問題は相手にきちんと伝わるかどうか。マーケティング文書なら、多くの人を射止められるかどうか。そのためには、個人的には抵抗のある言葉も使います。

 

  たとえば、私は「刺さる」という表現があまり好きではありません。でもマーケティング文書を取り扱うのなら、ここ何年か流行っているこの表現から逃げ回るわけにはいきません。せめて、やたらめったら使うのではなく、ここぞという時に狙って使うようにはしていますが。

 

読み手に届くかどうか

  読み手の心に届くのであれば、それがどんな言葉でもかまわない(差別的、暴力的な言葉ではないかぎり)。それが私の翻訳者としてのこだわりです。